今週の風の詩
第3954号 彫刻家(2024.11.24)
彫刻家
匿名
上司が個展を開いた。ギャラリーでのにぎやかなオープニングパーティの夜、人混みを避けて小さく仕切られた部屋で作品を鑑賞していると、年配の男性が一人ふらりと入ってきた。著名な彫刻家だった。そして彼は、私の大好きな彫刻家の息子だった。
親子で同じ芸術の道をゆく。それはどういう気持ちだろう。芸術を語るほど知識はないが、私の目にはそれぞれの作品の間に共通する静けさと同時に、似て非なる精神世界が映っていた。
今、まさに目の前に「息子」がいる。私は何も言わないでいることが出来なかった。何か言いたいとも思った。一瞬の間に様々なことが脳裏をよぎった末、短い言葉が私の口からこぼれた。「ファンです」
「どうも」ボソッと彼がそう言ったのが聞こえた。気まずい瞬間は呆気なく終わった。
人気作家に対して、それはきっとなんて平凡過ぎる挨拶だったろう。
それ以上に嘘が恥ずかしかった。気を悪くしたら。怒らせたら。私はついに「お父様の」と言う勇気を持てなかったのだ。後で思った。もし言っていたなら一体どんなストーリーが展開しただろう、と。
それから10年以上が経ち、ごく最近、あの夜遭遇した彫刻家が旅立たれたことをニュースで知った。
今でも、私は芸術家と出会い接する機会に恵まれている。何より自分自身もダンサーとして舞台に立つようになり、観客として足を運んでくれた方々から感想をもらう立場にもなった。言葉を贈る側としても、受け取る側としても、短い対話の時間をお世辞や心にない言葉で濁さないように意識している。その方がずっと清々しく、気持ちがいい。相手の反応を先回りして怖れるより、自分に対して誠実でいる時、私は自分をより好きになれる。改めて思い返すと、その原点は彫刻家とのあのほんの一瞬の出来事にあるような気がしてならない。
ニュースに接し、久しぶりにあの彫刻家の顔を思い浮かべた。次に会う時は、と漠然と思い描いていたことはもう叶わない。すべてが一期一会。湧いてきたのはもはや後味の悪さではなく、大切なことを学ばせていただきたいという感謝に近い何かだった。