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今週の風の詩

第3964号 冬のぬくもり(2025.2.2)

冬のぬくもり
野原圭(ペンネーム)

 遠い昔の2月、中学受験に失敗した。親の意向での受験だったが人生初めての挫折は親の落胆と相まって子供心に暗い陰を落としていた。
 そんな私をみかねた近所の人から英語塾に誘われた。中学から始まる英語の授業に備えた短期間の塾なので、ビルの空室を利用した生徒10名ほどの寺子屋のような雰囲気だ。先生は、当時女の子の憧れだった「スチュワーデス」今で言う「客室乗務員」を目指す明るく朗らかな女性だった。ふんわりとカールした髪にえくぼが愛らしい、優しいお姉さんのような先生の授業はとても楽しく、私の翳りは徐々に拭われていった。
 ある日真っ暗な帰り道、冷たい風に首をすくめながら歩いていると、先生は蒸気で曇ったガラスケースが明るく輝く店先で立ち止まり「みんな、肉まん食べない?」と笑いかけた。ほわほわと湯気の上がる白く柔らかなご馳走は凍えた手にふっくらと温かくしみわたり、皆夢中でかぶりついた。言葉に尽くせない格別なおいしさは、冷え切った体だけでなく心までほかほかと温め、私たちは優しいぬくもりを頬張りながら元気に家路についていった。
 やがて授業の最終日、先生がいつになくそわそわと落ち着かない様子をしていた。「きょう、採用試験の発表で連絡がくることになってるの」という表情は緊張でこわばっている。携帯電話はなく、急な連絡は取り次ぎが必要な時代だった。全員、心ここにあらずで座っていたらビル管理の人が先生を呼びだした。戻ってきた先生は涙をこらえているようで皆固唾をのんでいると「ごめんね。あんまり嬉しくて」と話す途切れ途切れの言葉に私たちは自分のことのように歓声をあげて飛び上がった。
 寒さの募る季節が来ると、可愛いえくぼと優しさの詰まった最高のご馳走を思い出し、自分の受験が不合格でなければ出会えなかった冬のぬくもりを、大人になった今も大切に抱き続けている。

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