今週の風の詩
第3892号 靴を捨てる (2023.9.17)
靴を捨てる
taeko(ペンネーム)
これはもうずいぶん前に買った靴だ。あるときオシャレな
靴を履いて出かけたものの、足が痛くて歩けなくなり、通
りかかった商店街の靴屋で買ったのだ。とにかく痛いので
デザインには目をつぶって選んだ。
安いし、ほんとうに野暮ったい黒い靴なのだが、これがと
ても歩きやすい。今日はたくさん歩くという日にはこの靴
を履くようになった。靴箱を開けてこの靴を取り出すときに、
必ず思い出す人がいる。
昔、ドイツで暮らしていたときに語学学校で知り合ったアフ
ガニスタン人のJだ。最初はお互い殆どドイツ語をしゃべれ
なかったが、がんばって勉強して、いつも二人一緒に進級し
た。穏やかな笑顔でゆっくりとしゃべる女性。アフガニスタ
ンでは学校の先生をしていたが、タリバンの暴力がひどくな
って住んでおられず、家族とともに山の中を数日間歩き続け
てパキスタンに出て、そこから飛行機でドイツにやってきた。
「山の中を歩きつづけて靴がこわれてしまった。3足を履きつ
ぶした」と言った。
たいへんな道のりを歩いたのだ。
そんなときに頼りになるのは歩きやすい靴だろうな。
Jのその話が印象的で、日本でのほほんと暮らしていながら
わたしは「もし非常事態になって、家を捨てて歩かなくては
ならなくなったら―」などと想像してしまう。そんなときに
はこの野暮ったいが頼りになる靴を履くだろうと思う。
そして、外出するときに靴箱から取り出すたび、いつもアフ
ガニスタンの山を歩き続けたJのことを思ってしまう。Jとつ
ながる靴なのだ。長年履いて靴底がさすがに傷んできた。
そろそろ捨てる時なのかもしれない。
でもそうしたらわたしはもうJのことを思い出さなくなるの
だろうか。アフガニスタンはふたたびタリバンが暴政をしい
ている。Jはドイツで元気で暮らしているだろうか。
やっぱり、あと1年でいいからこの靴は続けて履こう。
捨てるのはもうちょっと先にしよう。きっとまだ大丈夫。