送り先1か所あたり
10,000円(税込)以上で送料無料

今週の風の詩

第3922号 杖と通勤電車(2024.04.14)

杖と通勤電車
八柳サエ

40代の頃、足の骨折で松葉杖の世話になった。街なかでの松葉杖は、足が悪いアピールとしてはかなり目立つ。でも、治ればもと通りに歩けると思うのか、通勤電車ではほとんど席を譲ってもらえなかった。やれやれ、思いやりの薄い時代になった、と気がふさいだ。

還暦を過ぎ、股関節症で歩くのに痛みが伴うようになった。高齢者の仲間入りにはまだ早い、杖をついて歩くのは抵抗がある。それでも痛みのためしぶしぶ杖を試すと、歩行が格段に楽だ。しょうがない、杖に頼ろう。

自分用の杖を求めようとすると、種類や販売店、価格帯など、バリエーションが豊富で迷う。高額なものには手が出ないが、百円ショップのものはしっくりこない。季節や服装を問わないのはもちろん、この期に及んでもやはり、少しは洒落ていて欲しい。

結局これっ!と決めてその場から使う。杖つく人、デビューである。すると、以前より街を歩き回れると思えて、少しワクワクさえした。

問題は、朝の通勤電車である。座れないと1日の疲労感が大きい。松葉杖の経験から周囲の思いやりは期待できない。杖で優先席の前に立つのも、これ見よがしに席を譲れと言わんばかりで気が引ける。ええいっ、立ちっぱなし覚悟で電車に乗った。

驚いた。すぐに席を譲られたのである。すっと席を立ったのは中年の婦人。申し訳なく、気恥ずかしいような嬉しさ。ありがとうございます、と微笑み返す。

毎日同じ電車に乗れたわけではなかったが、席は毎朝、譲られた。10代と見られる学生から50代くらいの方まで、男女を問わず、杖を見てすぐに席を立つと思えた。世の中まだまだ捨てたものではない。通勤電車を通じて、杖が人の思いやりのありがたさを教えてくれた。

電車で席を譲られるのが、本当は、杖ではなく老いの見た目からだったとしても、今はまだそれを認めたくはない。杖つく人となって、却って心の天井が上がり、歩行が軽やかになったのだから。

カレンダー
  • 今日
  • 定休日
  • 受付のみ・発送無し

土日祝日は発送がお休みです。水曜日も発送が休業の場合がございます。

ページトップへ