今週の風の詩
第3923号 伝説の最後(2024.4.21)
仲間内でまるで都市伝説のように語られる焼肉屋があった。彼ら曰く「炭火焼肉をどれだけ頑張って食べても3千円を超えない」のだ。「そんなことあるわけない」と思って私も行ってみたが、どれだけがんばって食べても会計が3千円に届かない。びっくりした。
スタッフはいつも丁寧な対応で、地元の人たちが楽しそうに肉を焼いている。「あと3席くらい増やしたほうが採算がとれるのではないか?」「何十年もお値段が据え置きなのだろうか?」など、みんなで安すぎる理由と対策を勝手に話しあった。
「今日で閉店するらしいよ」
という連絡を聞いたとき、驚いたけれど「なぜ?」とは思わなかった。あの価格設定ではじゅうぶんな儲けなどないだろう。あの店の経営者はきっと人が良すぎたのだ。
閉店に間に合うように、まだ雪の残る商店街を抜けて店にたどり着くと、最後の夜を楽しむ常連客たちで賑わっていた。「最後だからって、かなり安くしてくれてますよ」と先に来ていた知り合いが教えてくれた。まったく、どこまで人の良い店なんだろう。焼肉の香りと人々の笑い声に囲まれながら、私たちはできるだけ高い肉を注文し、飲み物もいっぱいおかわりした。
スタッフと記念写真を撮る人たちが何人もいて、その盛り上がりが、この店が地域にどれだけ愛されていたかを証明していた。普段は厨房にいて、なかなか姿を見ることもなかった店長は、とても穏やかで誠実そうな顔をしていた。深々と客に頭を下げている。
「俺さ、あの店長がまた店を始めて、今度はもっと高い値段設定になったとしても、その店を選びたいよ…」
仲間の一人がポツリと言った。
最後にレジで「おいしかったです。ありがとうございました」と伝えた。お会計は3200円。特上のお肉をあれだけ注文したにも関わらず、だ。本当に商売下手な人たちだ、と少し呆れる。
私たちは、店が閉まる前にタクシーに乗った。
平凡な人生の中で特別な出来事なんてそう起こらない。でもこんな日がきっと、忘れられない特別な夜に数えられるのだろう。遠ざかる「焼肉」の赤い看板を見ながら、私はこのことを愛しく思い出す未来を想像した。